弟について
当ブログとしては珍しく長い記事になります。
長くて読むのもしんどいですが、言葉足らずで誤った解釈をして欲しくないのと正確に描写したほうが良いと判断しましたので、長いです。
ただ、最後まで読んでいただけるとあなたにとって重要な何かしらの気付きを得られると思います。
読んで損はない記事を書いたと思いますので最後までお付き合いいただけたら幸いです。
弟との関係
僕には2歳下に弟がいました。
兄弟仲が良いとは言えない関係でした。
別にいがみ合っていたりとか会えばケンカするということではないです。
ただ会話することもないので無関心という感じです。
成人してからはこんな感じで数十年間ほとんど会話らしい会話もしてこなかったです。
兄弟仲というと相撲の若貴兄弟があげられるかと思いますが、雑誌やTV等で語られる内容を聞くと彼らの互いの気持ちが理解できることも多々あります。
某TV番組で兄の花田虎上さんが『もし(貴乃花から)電話かかってきたら出る?』と尋ねられた際に『今幸せなので、静かにこのまま時が流れるのを待ってます。』と返答。
いっぽうの弟の貴乃花さんは多くを語らないが、自分にも厳しいが周りにも同等の厳しさで接している印象があります。自分の信条であったり信念に反することには兄弟だけではなく親や子供たちでも許さない白黒ハッキリした性格に見受けられます。
どちらのことも心情的にはなんとなく理解できることです。
誤解してほしくないのですが、僕と弟の関係が若貴兄弟と似ていると言っているのではありませんからね。
ただ、若貴兄弟の互いの気持ちが理解出来ると言っているだけです。
思えば、なんで会話しなくなったのか?
それはいつからなのか?
弟は中学校に入学して器械体操部に入りました。
僕は中学3年でバスケ部でした。夏の大会後に部活は引退して受験勉強に力を入れていく時期です。
ある日のこと、弟がバク転、バク中、鉄棒の大車輪を軽々とこなすのを目撃して『そんなに短期間でマスターできるものなの?』と驚いた記憶があります。
『どうやるの?ちょっと教えてよ。』と言って教えてもらって。
バク転、バク中、鉄棒の蹴あがりの3つは出来るようになりましたけど、大車輪は無理ゲーだなと思ってやり方も聞かなかった記憶があります。
その後時は流れ、弟は僕の進学した高校に入学してきました。
この時に思ったのは『進学校ではなく工業高校とかに行って手に職(技術)を身に付けた方が向いているのでは?』と感じていました。
このことを直接言いはしませんでしたが、性格的に大学まで行って勉強をするタイプではないと感じていました。
いずれにしても環境的にはここまではほぼ同じ道を辿っていたわけです。
で、弟は高校1年の時に諸々の問題を起こし周囲の反対も聞かず自主退学します。
僕は退学することに反対はしませんでしたけど、自分の決めた道に責任もって生きていってくれと考えていました。
しかし、高校を辞めた後に就いた仕事は1年も続かずすぐ辞めて職を転々と変え、数年後には高校を退学したことを後悔しているとまで言っていると。
職を変えるたび、僕の目にはことあるごとにラクな道を選択しているように映って、そのたびに失望させてくれると感じていました。
僕は大学進学を機に東京暮らしをしていましたので、この頃にはすでに弟とは会話の一切をしなくなっていました。
対して僕は大学に進学はしましたが、将来やりたい事が見つからない不安もあり必死にもがいていた時期でもあります。
自分の将来も見えていない時期でしたし、人のことに構ってあげるほどの余裕など持ち合わせていませんでした。
この時期に弟が家で暴れたとか暴力沙汰を起こしたとかで精神科の病名も付くことになります。
ここから僕の生活圏に弟の存在は無くなったような気がします。
若貴兄弟の心情が理解できるというのもこういう事なんだろうなと。
余命数ヶ月
弟のその後のことは数十年間話しもしなかったのでどういう生活をしているのかもほぼ分かりませんでした。
状況が変わったのは、昨年(2023年)の11月頃から体調がよくないというのを聞きました。
色々と検査をして12月28日にすい臓がんでステージがかなり進んでいるため治療法もなく余命3~4ヶ月というのが分かりました。
数十年間ほぼ会話もしてこなかったわけですが、この話を聞いた時は正直ショックがでかかった。
数十年間ほぼ接点もなく過ごしていたのになんでショックを受けたのか?
理由は分かりません。
まだ信じられないような気持ちでしたが、12月31日に会いに行くことを決めます。
弟の住むところに向かう道中で考えたことは2つ、
『会いたくないと言われたらそのまま帰るか』というのと
『自分に何が出来るか?』ということ。
特に『自分に何が出来るんだろうか?』これは何度も繰り返し考えましたが結局答えは出ずに弟の住むアパートに到着しました。
『会いたくない』と言われたらそのまま帰るつもりでしたが、僕を拒絶するどころかわざわざ来てくれたことに対して感謝の言葉を何度も言う弟を見て、自分の今までの認識は間違っていたのか?と痛感しました。
『自分に何が出来るのだろうか?』これも答えが出ました。
弟の残りの人生で『少しでも気持ちが軽くなること』をしよう。
特別なことをするわけじゃありません。
本人の希望する治療やケアを最優先するようにしました。
日本だと1日でも長く生きてほしいと藁にもすがるように(本人ではなく周りが)治療法を探したり勧めたりする傾向が強いですが、本人が抗がん剤の治療を望んでいなかったので緩和ケアのみ。外野の意見は極力排除するようにしました。
できるだけ長く自分の家(アパート)で過ごしたい、でもここで死ぬと家主さんに迷惑がかかるから体の自由が利かなくなったら入院する。というので『入院していた方が万一の時のケアも迅速に対応してもらえるぞ』という言葉を飲み込みました。
本人はまだ若い自分が余命数ヶ月の病気になったことで周りの人間がショックを受けるのを気にしていたため、親戚関係や職場関係、友人などには病気のことを伏せることにしました。
それと僕が面会に行くととにかく嬉しそうにしていましたので、可能な限り会いに行きました。
そして、2024年1月20日から入院生活になります。
最初の1週間は一般病棟だったのでコロナ対策の面会制限があり(1回15分以内1名まで)ましたが、その後緩和ケア病棟に移り制限はほぼなくなりました(面会者は登録をした3名までという制限のみ)。
緩和ケア病棟 主治医の説明
1月末頃に緩和ケア病棟の主治医から家族への説明がありました。
現在の病状とこれからの推移を詳しく説明してもらいました。
また、その際に患者にどのように接するのが良いのかも教えていただきました。
一昔前までは【緩和ケア】というと治療を放棄して痛みや苦しみを取り除くことが主になるため、医療従事者としてはやりがいが低い部署というイメージがありましたけど、全くそのようなことはありませんでした。
プロフェッショナルとして誇りをもって患者さんのケアとその家族のケアに力を入れているといった印象でした。
実際に弟も緩和ケア病棟に移ってからは『ここの看護師さんたちの看護は手厚い』と非常に満足していました。
主治医の説明では、以下の順番で推移していくと。
がんが進行すると栄養をとってもタンパク質が筋合成に使われなくなるようで、筋力の低下が起こる。
覚醒(起きている)している時間が短くなり会話の合間などに壁の一点を見つめるようになる。
記憶の方も昔の記憶が強くなって幼児化していく。
起きているように見えるけど夢と現実の狭間にいるようなもので、近しい人間に暴言を言ったりもする。
最終的には寝返りをうつ筋力もなくなり各内臓の働きも落ちてきて最期は老衰のように亡くなる。
ここまでの期間はだいたい3週間~6週間とのこと。
元気そうに見えるのはステロイドを使用しているためで見かけ上の元気だと思ってくださいとのこと。
家族にお願いすることは2つ。
①患者は日に日に出来ることが限られてくるので上手いことサポートして『出来る』ということを印象づけてほしい。(出来ないと感じてしまうとそれで気分が沈んでしまうため。)出来なくなったことを出来るようにするためのリハビリは要らない。
②暴言を言う状態を患者さんの今までの人生の繋がりとして見ないでほしい。暴言をいう前までを患者さんの人格として捉えてください。
実際に、入院生活に入ってからの方が調子は良さそうにしていましたし、しっかりと会話も出来ていました。
僕としては弟と会話を出来る状態にケアしてくれて手厚いサポートをしてくれた緩和ケア病棟の人たちには感謝しかありません。
弟の病状はほぼ主治医の説明の通りに推移していきましたので心の準備も十分できて戸惑うことも少なかったです。
ちなみに、弟の場合は暴言をはくことはありませんでした。
できそうで出来ない【許すこと】
仕事の合間をみて可能な限り面会には行きました。
その都度、弟は感謝の言葉を忘れず、自分の方が辛い状態なのに『椅子に座ってよ』と気遣ってくれる人間でした。
『もう自力で立ち上がれなくなっちゃったよ』
『スマホも文字が打てなくなっちゃったよ』
と時間の経過とともに出来ることが限られていきましたが、『疲れるから椅子に座って』と喋れる時は必ずと言っていいほど気遣ってくれました。
同じことが僕に出来るだろうか?
仮に僕が今の弟の立場だったら同じことが出来るのか?
数十年ぶりにまともに会話して接することで僕は自らの未熟さを痛感していました。
『今のままだったら絶対に出来ない。』
そもそも12月31日に会いに行った時、弟は快く迎え入れてくれて感謝までしてくれたけど、もし立場が逆だったら同じように出来ただろうか?
『出来ないだろうな』
思えばこの時から、自分が出来ないことをあっさりとおこなう姿に圧倒されてた気がします。
最期まで立派な振る舞いでした。
病室に顔を出すと『アニキ、今日も来てくれたんだ。』と毎回嬉しそうにしていましたが、そのうち『あっ、お兄ちゃん!お兄ちゃんが来てくれた。』に変わっていきました。
最初はふざけているのかと思いましたけど、主治医の言っていた幼児化の段階に来ているのだと。
そして、弟は2024年2月22日に永眠しました。
奇しくもこの2ヶ月で数十年分の会話は出来たと思います。
ある日の会話で弟がふと、
『一生懸命に仕事をした後に実家に寄ってギターを弾いてるのが充実してて楽しかったなぁ』と。
障碍者施設のスタッフとして16年間同じ職場で働いていたようです。
その施設でやりたい仕事の目標があって頑張っていたと。
僕の知らないうちに自分の足でしっかりと歩いていたんだなと。
言葉が適切かどうか分かりませんけど、【時間】を用意してもらえたことで、心の準備もできましたし自分が出来る範囲のことは全てやれたので後悔はいっさい残っていません。
そういう意味では幸運だったなと感じています。
誤解してほしくないのは、断絶状態の兄弟や親などと何が何でも和解しろと言いたいのではありません。
なかには断絶していた方が幸せなケースもありますからね。
僕が答えを持っていて『ああした方が良い。こうした方が良い。』と言っているのではありません。
ただ、数十年という長い年月をかけてこじれた関係でも修復することは出来るのがわかりました。
現在、弟が亡くなって3ヶ月ほど経過しましたが、いまだに考えさせられています。
大袈裟ではなく人生観に変化があるぐらいの影響を受けました。
今後の生きる上での指針になるような、身が引き締まる思いです。